ゆいぽーと書き方塾・受講者作品⑤
「空き缶の水入れ」
和田ちとせ
広島の県北の高校で受けたO先生の「美術」の授業は、どの授業よりも待ち遠しかった。
木造の校舎に、先生の皮のスリッパの音が凛と響き渡ってくる。間もなく、背の高い先生が、ひょうひょうと来られる。
「美術」のことと絡めて、その日の外の景色や世間の話などされる。
「今、広島にはピカソの作品が来ているよ」
文化のニュースに乏しい田舎では、先生の話はすごく刺激的で、私たちの若い感性がゆさぶられた。すぐにでも広島に行ってピカソの作品を一目見たくなった。
また激しい吹雪の日には「僕だったら、今日の吹雪のムードを強烈な線と色でたたきつけるように描くよ。これが抽象画になるんだよ」とおっしゃった。
生徒の私たちはこうして絵ができるのだと知り、ため息をついた。
天気のよい日には、近くの神社にでかけた。石段にしゃがんで思い思いに水彩画を描いた。樹木の茂る校外で木漏れ日をうけて、気持ちが解放される授業は、至福のひと時であった。出来上がった全員の作品は、美術室に展示され、みんなで完成を喜びあい、鑑賞した。
うれしかったのは、全生徒の作品のいいところを各々見つけ出し、みんなの前でほめてくださることであった。
それが先生の教えることの主義、信念だったのだろう。
当時の田舎では、絵を描くためのイーゼルも手に入りにくかった。
先生は生徒全員のイーゼルと水入れを準備してくださった。木製の手作りのイーゼルは手ざわりが温かく、水入れは缶詰めの空き缶の間に合わせだった。
空き缶に針金を通し持ち手を作り、青色のペンキを塗り、全生徒の番号まで記されていた。それが、ちゃんとイーゼルにかけてあった。こうして先生は、生徒が授業をうけるのを待っておられたのである。
もちろん、先生は自身でも作品を制作されていた。大きなベニヤ板に気持ちをこめて抽象風の絵を描かれ、東京の展覧会によく出品されていた。年をとられても深く「美術」を探求しつづけられていた先生の姿と作品の数々を、私は今も鮮明に覚えている。
美術部員の私たちは先生とささやかな美術展を広島市内で毎年開いていた。
先生が九十二歳で亡くなられるまで、いや亡くなられた後も、「美術部OB展」として、現在、三十七回続いている。
美術部員が先生をいつまでも思い敬慕しているからだと思う。
わが家の玄関には、先生の写真と絵とあの「空き缶の水入れ」が飾ってある。
ふり返ると、温かく慈しみ深い眼差しの先生の姿がうかんでくる。