ゆいぽーと書き方塾

2016年7月31日 (日)

ゆいぽーと書き方塾・受講者作品⑤

「空き缶の水入れ」

和田ちとせ

 

 広島の県北の高校で受けたO先生の「美術」の授業は、どの授業よりも待ち遠しかった。

 木造の校舎に、先生の皮のスリッパの音が凛と響き渡ってくる。間もなく、背の高い先生が、ひょうひょうと来られる。

 「美術」のことと絡めて、その日の外の景色や世間の話などされる。

 「今、広島にはピカソの作品が来ているよ」

 文化のニュースに乏しい田舎では、先生の話はすごく刺激的で、私たちの若い感性がゆさぶられた。すぐにでも広島に行ってピカソの作品を一目見たくなった。

 また激しい吹雪の日には「僕だったら、今日の吹雪のムードを強烈な線と色でたたきつけるように描くよ。これが抽象画になるんだよ」とおっしゃった。

 生徒の私たちはこうして絵ができるのだと知り、ため息をついた。

 天気のよい日には、近くの神社にでかけた。石段にしゃがんで思い思いに水彩画を描いた。樹木の茂る校外で木漏れ日をうけて、気持ちが解放される授業は、至福のひと時であった。出来上がった全員の作品は、美術室に展示され、みんなで完成を喜びあい、鑑賞した。

 うれしかったのは、全生徒の作品のいいところを各々見つけ出し、みんなの前でほめてくださることであった。

 それが先生の教えることの主義、信念だったのだろう。

当時の田舎では、絵を描くためのイーゼルも手に入りにくかった。

先生は生徒全員のイーゼルと水入れを準備してくださった。木製の手作りのイーゼルは手ざわりが温かく、水入れは缶詰めの空き缶の間に合わせだった。

空き缶に針金を通し持ち手を作り、青色のペンキを塗り、全生徒の番号まで記されていた。それが、ちゃんとイーゼルにかけてあった。こうして先生は、生徒が授業をうけるのを待っておられたのである。

もちろん、先生は自身でも作品を制作されていた。大きなベニヤ板に気持ちをこめて抽象風の絵を描かれ、東京の展覧会によく出品されていた。年をとられても深く「美術」を探求しつづけられていた先生の姿と作品の数々を、私は今も鮮明に覚えている。

美術部員の私たちは先生とささやかな美術展を広島市内で毎年開いていた。

先生が九十二歳で亡くなられるまで、いや亡くなられた後も、「美術部OB展」として、現在、三十七回続いている。

美術部員が先生をいつまでも思い敬慕しているからだと思う。

わが家の玄関には、先生の写真と絵とあの「空き缶の水入れ」が飾ってある。

ふり返ると、温かく慈しみ深い眼差しの先生の姿がうかんでくる。

2016年7月29日 (金)

ゆいぽーと書き方塾・受講者作品④

母親失格

                            光見寺京子

 

 

 子育てをあきらめた。あきらめたからこそ、思った以上に息子がちゃんと育っている。かわいいと感じている。「子育て」も一つの人間関係だと感じる。

 わが家には、小学四年生の息子がいる。一人っ子だ。部屋の壁にも、絵本にも落書き一つない。おもちゃが壊れたこともない。

 大事に育てたと言えば聞こえがいい。私は育児と称して、幼かった彼を見張るようにして育てた。正しい育児、正しい母を目指していた。

 毎日が緊張していた。楽しいこともなく、辛かった。息子が三歳になる頃、私は食欲がなくなり、眠れなくなった。幼い頃から私をかわいがってくれた伯母の死が重なって、何もかも嫌になった。

 私は育児をやめた。息子を保育園に預け、ママ友に会うこともしなくなった。保育園が休みの週末には、夫に預けた。夫は子ども向けのイベントを、新聞やホームページで調べて、息子を連れて行ってくれた。

 私は料理や洗濯はしたが、それ以外の時間は一人でDVDを観ていた。映画館にも美術館にも行った。人を誘う元気もなく、一人ぼっちだった。週末も夫と息子が出かけると、私は一人になった。一緒に出かければいいのに、嫌だった。ちゃんとした母親になれなかった後ろめたさで、何をしても面白くなかったのである。

 それどころか、夫が、せっせと息子に尽くす姿を見ると腹が立つのだ。当たり前のように育児ができる夫と、かわいがられる息子を見るのが嫌だった。

 私ができないことを夫は楽しみ、息子も夫に子分のように従っている。そんな二人の結びつきが妬ましく、寂しかった。

 その後ろめたさは、五年、六年と経つうちに薄れていった。慣れてくると、冷静に状況を見られるようになったのだ。最初は息子を押しつけて悪いなと思ったが、夫は何年たっても子育てが楽しそうだ。本当に子育てに向いているとしか思えない。そんな夫が育てている息子が、不幸なはずはない、と思えるようになった。

 おかげで私は好きなことの幅がだんだん広がった。大阪の小説学校に遊びに行ったり、ジャズライブに出かけたり、フラダンスを習って発表会に出たりしている。そこで気づいたのは「私は自由だったし、もっと自由になれるのだ」ということだった。それを不自由にしたのは、正しい育児、正しい母親を目指した育児方針だった。

「あれ、今日はお母さん、家にいる日だっけ」

 先日の日曜日の朝、息子がそう言ったそうだ。私をからかうように、夫は笑っている。多少、嫌味もあるのかもしれない。

「お母さんがいないと、息子さんが寂しがるでしょう」

 趣味の仲間に聞かれると、困ってしまう。うちの息子は夫がいないと寂しがるのだ。

夫が出張で留守の夜、息子は、わざわざ、

「僕、お父さんがいいんだようー。寂しいよう」

 と、私に泣き真似をして見せる。

 どうも、からかわれているような気がする。父親への絶対の信頼があるからだ。その代り、大好きなお父さんに怒られると、とても落ち込む。涙を流して耐えている。こういう時には、さすがに私にも甘え、ひっついてくる。

 小学校に入学して間もない頃、息子に、

「母親失格だね」

 と言われたことがあった。

驚いた。どこで聞いて覚えたのだろう。

私自身が思っていたことを見抜いたような、鋭い言葉だった。

「な、え、なんでそんなことを言うん。よく、そんなことを言うねえ」

 傷ついて言い返したが、しどろもどろだった。何を言ったのか、記憶もおぼろだ。

 それ以来息子は時々、思い出したように言って嫌がらせをした。

 ある時私が、

「だから何なの。変なことを言うね」

 と開き直ったら、つまらなくなったのか、口にしなくなった。本気で怒っていることに気づいたのかもしれない。

息子に「気持ちだけは、母として踏ん張っていなくてはいけない」と教えられたような気がした。

 こんな母親だが、口はうるさくても愛情いっぱいの父親がいるので、息子は弁の立つ、しっかり者に育っている気がする。

 漫画を読む姿しか見たことがないが、四年生になって絵本を作るクラブに入った。三年生の時には読書感想文が入選になった。

「遺伝だねえ」

 などと詩の教室の仲間に褒めてもらった。私はまんざらでもない。

参観日に行くと、よく発表しているし、忘れ物もほとんどしない。桜の季節には通学路の花を拾って帰り、プレゼントしてくれた。家では服は脱ぎっぱなし、歯磨きも滅多にしないが、あれで内外のバランスをとっているのかもしれない。

 育児を頑張っていた頃は、お荷物のように感じていた息子が、今はかわいい。

頼りになると感じている。良いところも悪いところもあるし、ケンカになると憎らしいが、とにかく居てくれるだけでいい。

私は育児に向いていないかもしれないが、産んでよかった。

今は、自分のことを母親失格とは思わない。満点の息子でもないが、掛け値なしに、あの子と出会えてよかったと思う。

 

                               了

2016年7月21日 (木)

ゆいぽーと書き方塾・受講者作品③

「フットベースボール」

 

藤崎 由美子

 

 二人の娘が小学生の頃だった。毎年、子ども会主催のフットベースボールの大会があった。三年生以上は全員出席で、学区の子ども会ごとに練習し、大会に備えた。

 娘は二人とも球技が苦手である。練習に行くのを嫌がったが、全員参加が規則なので、仕方がない。親である私も練習に付き添った。

 見ていておかしいなと思ったのは、一人ずつにボールの蹴り方を教えるのではないのだ。

大まかなルールを説明しただけで、すぐに試合形式の練習に入る。これでは得意な子には分かっても、娘たちのような苦手な子は戸惑うばかり。ますますフットベースボールが嫌になるのではないか。

 案の定、娘たちはボールをうまく蹴ることも、受け止めたボールをどこに投げていいのかも分からず、まごついていた。挙句の果てに、チームメートに「分からんのだったら、ボールにさわらんで…」と怒鳴られる始末だ。のけ者にされて、しょんぼりする娘を見るのがつらかった。

 それでも娘たちは決められた練習日にはちゃんと参加して、大会の日を迎えた。それなりに練習して、蹴られるようになっていたので、夫と娘の出番を心待ちに、試合を見ていた。ところが、試合に出たのは上手な子だけだった。娘たちには一度も出る機会がなかった。お呼びがかからなかった。

 「たかが子ども会の行事なんじゃけえ、下手な子にもいっぺんぐらい蹴らしてやりゃあええのにのお」主人の残念そうなつぶやきを聞きながら、私も悔しさがこみ上げてきた。こんな扱いをするのなら、初めから「選抜チーム」にすればいいじゃないの。これまで、頑張った娘たちの努力と気持ちをどうしてくれるのよ。

 娘たちも、やりきれない様子だった。

 「私、練習頑張ったのに…もう来年からフットには行かん」「私も…」「結局、上手な子だけ出て、私らは何じゃったんかねぇ」

 そんな娘たちの気持ちも知りながら、子ども会の世話人方に遠慮して、私は本音を声にしないで抑えてしまった。泣き寝入りをしたのである。

 今でも、娘たちを守ってやれなかった悔しさが、シコリとなって残っている。

 あの時、「集まった子ども全員を参加させよう。上手下手で差別するのは子ども会

活動の趣旨にあわない」と、勇気を振り絞って提言すべきだった。

 私は何も言わず、自分から引いてしまった。言っていれば、何かが変わっていたかもしれない。娘たちに寂しい思いをさせずに済んだかもしれない。

 直感的におかしいと思うことに声を上げる大切さと、あと少しの勇気の意味を、私は身をもって学んだ。

2016年6月16日 (木)

ゆいぽーと書き方塾・受講者作品②

「薩摩隼人」

 

えいみ

 

 わが家の家事分担は、出来る者が出来ることをする。

 一番大切な食べることは、私が九十パーセントし、後片付けは主人の担当だ。洗濯は気がついた者が洗濯機を回す。手が空いている者が干す。テレビを見ながら出来る畳む作業はたいてい主人が引き受ける。もっとも、おしゃれ着の洗濯は失敗を恐れ、手を出さない。

 娘が休日に家にいるとたまに、私の代わりに「主婦」をする。その完璧さに、

「いつ嫁に行ってもよいくらいね」

「いや、三十年早いぞ」

 と、主人といつも言い合って苦笑する。主人は十八歳の娘をいつまでも手元に置いておきたいらしいのだ。

 この、わが家の家事分担と言うか、自主性が定着するまでには主人と私の育った環境の違いを歩み寄る長い道のりと努力が必要だった。

 二十年ほど、私は専業主婦で、「家事は私の仕事」とこだわっていたと共に誇りも持っていた。そのせいで主人や子ども達が進んで家事を分担してくれることを「嫌味」としか受け取れなかった。

 ところが、こだわりを捨てなければならなくなった。

 十年前に乳癌発症してから三度の再発、その度々の術後の痛みや抗がん剤の副作用による末端神経の痺れで、洗濯物のしわを伸ばし干すことも出来なくなり、料理するのにも包丁を持つのが危なっかしくなり手を借りなければ出来なくなった。

 するとどうだろう。「私がしなければいけない」と思わなくなったのだ。

 主人や子ども達に感謝の気持ちを思い起こすだけで、皆が幸せになると気付いたからだ。

「嫌味」と受け取っていたときは「ありがとう」を素直に言えてなかったように思う。

 自分がこだわりもプライドも捨て去り素直になれたことで、同じ「ありがとう」も違う波長で伝わるのだと感じた。

 幸せもすべて自分自身の心しだいだと実感した。

 いまだに「家事は主婦の仕事」にこだわる母は言う。

「ええなあ。主人がやさしい、よう動かはる人で幸せやなあ。あんたももっと動かな、あかんで」

どうやら幸せになる心の転観は、母には難しいようだ。だから、弟嫁にもやんわりキツイことを言う。弟は弟で、母の流儀をそのまま引き継ぐから、義妹と夫婦喧嘩になるようだ。

 私は薩摩隼人の主人に嫁いだ。世間の常識では、薩摩隼人にはワンマン、あるいは亭主関白の印象があろう。ところが主人は大違いなのだ。おそらく、鹿児島の両親を見て育ったからだろう。義父は朝星夜星をいただいて野良で働き、体が弱い義母を助けて家庭を守った。

 主人は私と結婚する前に、義父に言われたそうだ。

「家のことは、お互いが相手の出来ないところを助け合ってやっていけ、薩摩隼人は女を見下すイメージがあるかもしれないが、そうじゃないぞ。男の強さというのは、やさしさと包容力なんだ」

 主人の背中を見て育った息子たちは、そろってイクメンである。おかげで嫁と仲良く、幸せに暮らしている。

 世の中の常識や習わしが、いま、好ましい方向に変わりつつあるような気がする。私はそれがうれしい。男が家事を引き受け、子育てをしても恥ずかしくなく、堂々としていられる世の中は「平和」である。

 

 

                   了

2016年6月 4日 (土)

ゆいぽーと書き方塾・受講者作品①

 

石津 富美江

 

 鯖を食卓に出す。

「この鯖、何だか水っぽいね。焼き魚にしては」

 主人はけげんそうに言った。

「焼いてないよ。レンジで温めたからね」

「ええ、レンジで温めたの。こんな塩鯖、初めて見たよ」

 何ら焼き色のない鯖に私は多少の不安があったが、まさかそんなに驚かせることとは思いもしなかった。主人はあきれ顔で、鯖の焼き方を教えてくれた。

この一件は、主人が今でもことあるごとに子どもらや友人に笑いながら話す。

 結婚して家を出るまで、私は両親、祖母と同居していた。家事はすべて母と祖母任せ。特に料理は私が不器用だから、母はあまり手伝わせてくれなかった。そのせいで、得意料理はおろか、料理の知識すらなかった。

 新婚の頃は共働きだった。夕方帰宅すると、

何から手を付けていいのか分からないありさま。ご飯はスイッチ一つで炊けたが、鯖を焼くことさえ知らなかったのである。私は鯖を電子レンジで色が変わるまで温めて食卓に乗せたのだった。

 こんな失敗はしょっちゅうで、主人をあきれさせたものだ。

 主人は気象の仕事をしている。当時は、観測のために一ヵ月のうち、十日間は同僚と三人一組で山の上の測候所に寝泊まりしていた。

料理は三人分を交代で作るのが決まりだ。まず食材の買い出しをして、山に入る。和食から中華まで、主人の料理の腕はここで磨かれたのである。

 今でも本棚には使い込まれた料理本が何冊か並んでいる。その勉強ぶりと生来の凝り性で、腕を上げたことは想像に難くない。なにせ、理系の律儀な性格で全く手を抜くことを知らないから、もやしのヒゲまで一本ずつ取っていたという。

 それに比べて私ときたら、大雑把なのである。もやしのヒゲどころか、魚のウロコさえあまりとらない。面倒だから、ウロコのない魚を選んで買う始末だ。

 主人は時々、手料理を振る舞ってくれた。

その一押しがグリーン・ピースのポタージュで、主人のオリジナル料理だ。舌触りのよい、

上品な緑色のスープである。豆を裏ごししたと聞いたときは「さもありなん」と納得し、その丁寧さに頭が下がった。

 山の上の測候所は機械化で、十五年前に閉鎖された。主人は山へ行けなくなり、料理もほとんどしなくなった。

 山では、必要に迫られてしていた所もあったかもしれない。その後、仕事の仕方も変化しパソコン中心の机仕事のみとなり、人間関係も希薄になったらしい。年齢的にも責任ある仕事を任され残業の日々。休日は終日、なにをするでもなく横になる事が増えた。料理をしなくなって心なしか覇気も失くしてきたように思える。

 あの鯖騒動から、二十年以上が経った。私も人並みに近い食事を作れるようになった気がするが、あの心のこもったグリーン・ピースの域にはまだまだ程遠い。

 主人は台所に立つ姿が似合う。仕事をバリバリこなしながら、家事をするのが様になるのだ。今では以前程、料理をしなくなったとはいえ、家族の誕生日に、主人が腕をふるう

料理は子どもたちにとっても格別楽しみなようだ。

 私が思うに、家事は女の仕事でも、男の仕事でもない。性分に合っていて、しかも興味を持ち、やりがいを感じる者が引き受ける。

それが、もっともうまくいく秘訣ではなかろうか。

 子どもたちも成長し、仕事に追われる主人も含め、すれ違いの食卓になりつつある。

 時には、主人を元気づける意味でも、グリーン・ピースのスープの手ほどきを受けてみようと思っている。そして家族で、味わえる一時を作りたい。

                   完

ゆいぽーと書き方塾

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